なぜ生きる 本質を語ろう
明日ありと思う心の仇桜
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「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
今月のことばは、親鸞聖人が詠まれたと伝わる和歌です。親鸞聖人が9歳の時、
仏門に入られる決心をされ天台座主である慈円を訪ねましたが、すでに夜だったので、
「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われました。しかし、
聖人は「明日まで待てません」とおっしゃられ、その時詠まれたのがこの歌と伝わっています。
この歌の意味は、「今美しく咲いている桜を、明日も見ることができるだろうと安心していると、
夜半に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない」ということですが、
親鸞聖人は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない、
だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」との思いが込められています。
今年も3月11日がきました。あの大震災から早くも3年が経過し、あの時に感じた災害の悲惨さ、
そして命のはかなさというものが薄れつつあるように思えます。私たちは当然のように
自分には明日もあり、また明後日もあり、そして10年先、20年先もあると思っています。
また、知らず知らずのうちにそういうことを前提とした生活習慣となり、
今ここにしかないこの命を大切に生きられていないことも多くあるのではないでしょうか
。3年前の3月11日には一瞬にして2万人近くの方々がお亡くなりになり、そして3年経過した今もなお、
26万人以上の方々が避難生活を余儀なくされているという現実。この現実を経験しても、
時間の経過とともにその記憶が薄れ、また当然のように自分には明日があり、
今を精一杯生きられていない自分。
親鸞聖人の詠まれた歌から、改めてそういった自分に気づかされます。
今日が最後 そう思って生きてみる
人生オどう有効に生きるか=一方法論ではだめ
今の現状を引き受けてそこからどう生きようとしているのか?
覚悟を持って生きる
今の現状に合わせて自分をしっかり見ていく
{柔軟な対応力}
宗教はどうして人をたきつけるのか
根源的な魅力は?
1 不安 死と病
2 欲望
キリスト教は生まれながらに罪を背負っている=キリスト教の原点
人生が苦である原因も縁起でとらえる